めぐり会い
今年の春、ブロードウェイの中古カメラ店のウィンドーでニコンFをみた。
手にしてビックリ! ムツゴローだった。昔、私が日本で使っていたなじみのカメラだった。忘れもしない「奈々を、くれ、くれ、ムツゴロー・709090625」 だったのだ。
それにしても、こともあろうにバンクーバーでめぐり会うとは思いもしなかった。レンズとファインダーは全く別物がついていた。スプリット式フォーカシングの右上が汚れて染みたような跡は当時もあった。カメラ本体はキチンと手入れされていた。思えば30年ぶりの対面! 家に帰ると鋭い突っ込みが妻から入った。「なぜ、そのカメラが自分の使ってたものだって分かるの?」「お見せしましょう動かぬ証拠を!」と言いたい気持ちをこらえて、そらんじていたカメラに彫り込まれてい る9桁の数字をさらりとよどみなく言えたのだ。先月引っ越した我が家の住宅や電話番号もいまだに覚えられないのに、30年前に手放したカメラの番号を覚 えていたのだから妻もビックリ。このめぐり会いを心から喜んでくれた。
冷たい仕打ち
札幌冬季オリンピックの翌年、1973年頃このカメラを手放した。何度か雨にもあてたし、海水をかぶったこともあった。シャッターが落ちなくなったり、レンズの前玉に水が入って暖まるとくもるのでカメラ店のオヤジさんに相談したら、修理に出せばまだ使えるが3万円はかかると言われた。どうせベトナム帰りのアメリカ兵の下取り品を半値以下で買って5年も酷使したのだから…と二束三文の安値を付けられても「まぁ仕方がない」と妙に納得。フイルムや暗室用品と交換してもらったことを覚えている。当時同じ機種をほかにも持っていたので、修理して使うほど惜しいカメラとは思わなかった。今にして思えばムツゴローに対する冷たい自分の仕打ちが悔やまれる。
出会いと回想
1960年代から70年代にかけて、世界に散らばっていた報道カメラマンや戦場記者の人気カメラは、レンズの種類が多いニコンと、コンパクトでシャッター音の小さいライカだった。地方記者の私にはどちらも高嶺の花だった。たまに本社のスター記者がカメラマン同伴で通信局に立ち寄ると、無造作に机の上にニコンやライカを置いて、出されたお茶をすすっている間、横目でちらちら眺めながら原稿を書いていたものだ。
それから数年後ベトナム戦争が泥沼化していた頃、まとまった金が手に入った。カメラ店に行ったら下取りしたばかりのニコンFを店主に勧められた。クロームメッキの上から真鍮が見えるほど深く番号が彫られたニコンだった。そのときすでにプリズム部分の凹みと2カ所に手彫りの長い数字があったお陰で大幅に安くしてもらった。以来、下3桁をとってムツゴローとよんだ。
1972年札幌で第11回冬季オリンピックが開催されたとき、新聞社を辞めていたが、西ドイツの記者の取材協力員として写真を担当した。真駒内アイスアリーナのフィギュアスケート会場で、可憐なジャネット・リンの まさかの尻もち の瞬間をムツゴローで撮ったのだ。70メートル級のジャンプで笠谷・ 金野・青地の金・銀・銅を独占した会場にもいた。ムツゴローに300ミリの望遠レンズを三脚に固定し撮ったが「ジャンプは使える写真が少なかった」とボスに言われてガッカリした。UPIや他の通信社の写真を配給してもらったそうだ。
蘇生
ムツゴローを手放してからも40数台の日本製・ドイツ製のカメラを自分の部屋の棚に並べてあったが、寒暖の差が著しい札幌で冬を過ごすのは難しかった。水滴やカビがレンズにつき始めたので、一昨年10台を残して中古屋さんを集めて、競りにかけたらみんな売れてしまった。もう、カメラは集めないと思っていた矢先のムツゴローとのめぐり会いだった。
30年の空白を埋めるように毎日感触を楽しんでいる。すでにデジカメと併用しながら9本のフイルムを撮ったが、シャッターも露出も全く問題がなく、完全に復帰できるカメラとなった。マニュアル機というのは部品があってメンテナンスさえしっかりすればいつまでもで使えることが分かった。
ムツゴローは10月にプロのフォトグラファーをめざしている友人の娘さんに婿入りすることになっている。どんな写真を撮ってくれるのか楽しみだ。
 |
再会した名機、ニコンF
(1965年製) |
 |
手彫りの数字 |
 |
距離選手をインタビューする外国人記者たちを撮ったムツゴロー(右端・陸鯨のボス)。 |
|