語り継ぐ昭和の置き手紙
―伝えたいこの思い―
 
―5歳のとき―
 どこにいても夏が来ると、幼いころの北海道室蘭での空襲体験が蘇ってくる。今年もそうだ。空襲警報のサイレンがけたたましく鳴ったこと。妹を連れて夢中で防空壕に走ったこと。夜空を照らす探照灯。爆撃された工場から戻らない父の安否。非常食の乾パンを水で飲み込んだ。空襲の日のことを忘れることはない。私が5歳のときだった。

―昭和の置き手紙―
 先月、友人から1冊の本が届いた。北海道退職教員協議会編集「語り継ぐ昭和の置き手紙―伝えたいこの思い」に63人の体験が載っていた。80代の15人が手記を寄せていた。東京空襲のこと、少年航空志願兵の体験、空港整備の勤労体験などいろいろだった。年齢が私より5、6歳上なだけで、手記の内容、重みががらりと変わる。モンゴル、シベリア、樺太、満州、朝鮮、そして南方など外地で過ごした人たちの脱出をともなう体験は、筆舌に尽くし難いほど壮絶なものだったのだろう。非情な戦争の思いを、それぞれの言葉で懸命に伝えている。
 執筆者の1人は、「戦争体験者が年々減少している。だからこそ戦争を知らない世代へ、愚かな侵略戦争の歴史を、戦争の悲劇を、悲惨な出来事を語り継ぐ責務がある」と書いていた。
 「あなたもお書きになりませんか」という一筆も添えられていた。
 住む国が変わって、季節が巡って夏にふと思い出す戦争のことを、宛名のない手紙を書くように、せめて項目だけでも書いてみよう、という気になった。記憶の糸をたぐり寄せてみると、出征する兵士を東室蘭駅のプラットホームで小さな日の丸を振って見送ったこと。7月15日2度目の空襲の時、逃げ遅れて布団をかぶって耳を塞いでいた日のことが思い出される。

―終戦、進駐軍―
 8月15日は大人たちのむせび泣く姿を見た日でもあった。日鋼社宅の誰かの家の前で、両親の間にはさまれて、天皇が国民に終戦を告げた玉音放送を聞いていた。その時、空を仰いだら、やけに青く澄んでいたのを覚えている。
 終戦間もなく、進駐軍が輸送機から落下傘で鷲別の原野に降りてくるのを遠くから見ていた。海からの進駐軍は、ジープやトラックを間にはさんで緊張した面もちで行進してきた。青い眼と、皮膚の黒い人たちを見たのはその時が初めてだった。進駐軍は病院を占拠して駐屯が始まった。

―戦後・食糧難―

 私が鮮明に覚えているのは、むしろ戦後の1、2年、いつも腹を空かしていたときのことだ。小学校1年生に入学するまでの半年間、いろいろな体験をした。腐りかけた配給の芋からでんぷんを取り出す方法や、玄米を一升ビンに入れて白米にすることも知った。買い出しの物々交換で使うイカの塩辛、身欠きニシンや、ヌカニシンの作り方も覚えた。これらを岩見沢、旭川、富良野方面の農家に持っていくと、米や豆、卵、イモ、カボチャと取り替えてもらえるのだ。統制経済下では違法行為であったが、夜汽車に揺られて朝から農家を一軒一軒回って、また夜汽車に乗って戻るのだ。母と一緒に買い出しに行ったとき、田舎道で腹が空いて二人とも歩けなくなったことがある。通りがかりの馬車に揺られて入った農家で、初めて食べたゆで卵。子供心に「農家っていいなぁ」としみじみ思った。

―小学一年生のとき―
 学校が終わると、イタンキ浜にある進駐軍のゴミ捨て場をあさった。毎朝10時ごろになるとすり鉢型の噴火口のような大きな穴に、軍用トラック2台で生ゴミや生活ゴミを捨てにくる。ビーフの缶詰や食べ残しを見つけたときには歓声があがる。仲間で分けあうのだ。たまに見つける腸詰め(ソーセージのこと)は海岸で串に刺して焼いて食べた。戦後の窮乏生活の記憶はまだまだ連続するが字数も尽きてきた。
 思うに、私の戦争体験は、海岸で食べた1本か2本の串刺しのソーセージみたいなものだ。盛切酒の肴にもならない。戦争を語れる人たちもせいぜいあと10年ぐらい。今の日本は、平和を説く者が、石もて追われる殉教者になりかねない危うい国に見えるのが寂しい。

(2004年8月15日 記)