―家主のジョン・ハッチンソン―
1年前、借家が売りに出されて、次の借家を短期間で探さなければならなかった。新聞を手がかりに、あちこち電話をかけて下見の予約を取って、毎日のように見て歩いたものだ。先約があったり、家賃が高すぎたり、安いとあちこち痛んで汚れていたり。中には、私たちが歳をとりすぎているので断られたのもあった。年齢による差別を初めて体験した。その後も諦めずに探した甲斐あって、キツラノにある今の住まいが見つかった。下見のとき
「別嬪さん」に出会った気分だった。見合いの一目惚れっていうのかな。聞けば3年前に家を買い、仲間の助けを借りてベー スメントに人が住めるように作り替えたという。修復した手作業の跡から彼の几帳面さが伝わってくる。入居して以来、この住まいを選んで妻も私も満足している。
8月の夜更けにドアを叩く人がいた。家主のジョンが立っていた。見れば手に大きなサーモンの切り身を持って「釣ってきました」と言って差し出した。
30 ポンド以上ありそうなスプリングサーモンの切り身だった。彼はボートを持っている。今年の夏は週末になるとジョージア海峡に点在する島々の入り江にア
ンカーを下ろして、のんびり釣りをしていることが多かった。 |
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家主のジョン・ハッチンソンさん |
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W杯出場記念のTATOO |
―W杯出場のラガーマン―
ジョンは4年前まで一線で活躍したトロント育ちのラガーマンだった。15歳でラグビーを志し、16歳のとき、地元「バーバリアン」に入団、年長者に混じって厳しい練習に明け暮れていた。選抜されて93年のイングランド戦で初キャップ。95年と99年のラグビーワールドカップ大会にカナダナショナルチーム
の代表となり、フランカーとして果敢に戦った。いくつもの国々を転戦して歩き、「世界を知るラガーマン」として雑誌にも紹介された。 去年ジョンの両親がトロントからやって来て私たちと歓談した時、父親が「大学を卒業した時に教師になってほしかったけど、彼はラグビーのことしか考えられなかった」と苦笑していた。
1996年から5年間、日本のIBMとサントリーでそれぞれのチームの外国人枠登録選手としてプレーしていたこともある。ある日、芝生のないグランドで、練習中に右膝の皿を割ってしまった。入院、手術、長期のリハビリが続く。いつも考えていたことは「どうしたら、また復帰できるだろうか」だった。落ち込む気持ちを奮い立たせてリハビリに専念した。回復は早かったが元には戻らなかった。
2000年、気持ちを整理して一線を退く転機の年となった。
―TATOO―
暑い日、ジョンは上半身裸で裏庭の芝生を刈っていた。見事な肢体の腕と背中に大きなタトゥーを見た。腕には、ルーツを表すアイルランドの紋章と彼の愛称
「ハッチ」だった。そして背中にはワールドカップ出場を記念して、鳥とメープルリーフをデザインしたものを仲間と一緒に彫り込んだ。それは体に刻み込んだ青春の記念碑であり、一途にラグビーに賭けた男たちの証のようにも見えた。
―日本での5年間―
日本では優遇され、 人々は彼に親切で快適に過ごしていた。 ただ、ラグビーに関してはカナダと練習方法が違って「日本的」だった。練習時間よりもミーティングに長い時間をかけていた。練習をしながらコーチは具体的な場面で個別に指示をするカナダ方式とは異なって戸惑った。
日本のスポーツ選手は恵まれている。企業がスポーツ選手を丸抱えして、心おきなく練習できる環境が羨ましかった。「カナダ政府も、スポンサーになる企業も、パートで日銭を稼いで練習に参加しているアマチュア選手たちにもっと眼を向けて、経済的な支援をしてほしい」と話していた。
―新たな転機・転職・結婚―
ジョンは2年以内に素敵な彼女との結婚を考えている。しかし、共に過ごす時間がバラバラではデートもままならず、夜勤のセキュリティから日中勤務の仕事に切り替えるための準備をしている。堅実な家庭を築くためにもそれが必要だと二人で話し合った。ジョンはキャリアアップして、来年新たな転機を迎えることになるだろう。 |
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