『海を眺めて―船乗りになりたかった人』
日本語ラジオ放送主宰 田村富士夫さん

 
 今年もまた北海道人会から夏のピクニックの案内がきた。 「昨年同様『イクラ丼食べ放題』、もちろんジンギスカン、イカ焼 きもありますよ!」という幹事の田村富士夫さんの口調そのままの案内 文だった。

―故郷の海岸―
 “ひげタム”の愛称で親しまれている『ラジオ日本』パーソナリティー、田村さんは、私と同郷の室蘭市生まれだ。5年前妻と私がバンクー バーに着いたとき、番組の『ゲスト対談』でインタビューを受けて以来なじみとなった。年齢は10歳も離れているが同じ小学校に通ったことも分かった。故郷のイタンキの浜を懐かしみながら二人で子供の頃の話をしたものだ。私たちは同じ場所で海を眺め、海岸で遊び、遠足もした。耳を澄ませば地球岬灯台の霧笛も聞こえた。船が沖を通ると、あんな船に乗ってどこか知らない国へ行きたいと思ったものだ。不思議なことに、田村さんも私も高校生の頃まで船員になりたい、という願望があった。
 その後 何度か会ってお話しするうちに、私の知っている風景が田村さんの時代 には全く変わってしまっていることにも気づいた。私が「春になると水芭蕉が群生する湿原があった」と云えば、「そこは埋め立てられて住宅街になっていましたよ」と田村さん。 私が「海岸には約20m幅の段丘のようなところがあって、ハマナス や野いちごが群生していた。競馬場もあって、その真ん中に池があって、イカダを―」と云いかけたら、田村さんは「私たちが学校に通った頃にはすでに宅地化されてましたよ」と。 戦後10年間の地域復興事業と列島改造の始まりで、かつての風景は田村さんが育った頃にはもう失せていたのだ。

―ブーメラン―
「今夜も張り切ってラジオ日本の“ひげタム”です」  田村さんは、一人っ子で寂しがり屋で泣き虫だった。大勢の子どもと遊んだ経験が少なかった。いつも一人で何かをしていることが多かった。 小学5年生の時、父貞雄さんの転勤で札幌に移り住んだ。高校生の進路決定の頃まで船員を志していたが、叔父の勧めで運輸省付属の航空保安大学(航空電子科)への道を選んだ。「海から空に乗り換えた」と笑う。海が見える羽田に近い航空管制部で飛行機の離発着を眺めていた。 初めての海外旅行は台湾だった。その後休暇をとってヨーロッパ、北米のあちこちを見て歩いた。人に出会い、暮らしを眺め、名所旧跡を歩き、旅の終わりが近づくと、もっと旅を続けてみたいと思ったそうだ。
 私も30年間の生徒相手の大人の役を何とか終えて5年前に退職した。夏、冬休みには海外に出て、研修を受けたり、友人、知人を訪問する機会が何度かあった。外国旅行している間は楽しいが、待っている煩雑な仕事のことを考えるといつもため息が出た。自分がブーメランのように思えた。グルッと一回りして発ってきた元の日本に戻るからだ。おそらく旅行中の田村さんも私のような心境に1度や2度はなったはずだ。
 今年のパウエル祭でも半纏姿で神輿を担ぐ田村さんを見た。『神輿を担ぐ人、募集!』の連絡先が田村さんになっていた。そしてまた、北海道人会の参加申し込みも同様だ。いつも事務局や幹事役を引き受けて、裏方になったり、牽引役になったりしている。会って話しをしていると必ず携帯が鳴りだす。「相変わらず忙しい人だ」と思う。

―地域に根ざして―
 田村さんがカナダに渡って25年、船乗りにはなれなかったが、いつか乗ってみたいとヨットのライセンスは大事に持っている。カナダ生まれの娘達も 18歳と16歳。この国でのびのび育つ二人を見ると、移住したことに悔いはない。病弱だった両親を10年前に呼び寄せた。案じて異郷で暮らすよりも側に来てもらったことで互いに気が楽になった。人生、平坦ではなかったけれど家族の絆は深まった。仲間にも恵まれている。
 今年田村さんが主宰する『ラジオ日本』は10周年を迎えて、インターネットラジオを導入し、新たな飛躍を目指している。「あなたは器用な人ですが苦手なことは何ですか」と聞いてみた。アハハと笑って「金儲けですね!」と答えた。

*Radio Nippon Web Site: www.czoom.net